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もうひとつの「みどりみらい」
〜 みどりみらいの由来 について
この街に初めて降り立ったのは、平成7年11月のことでした。
当時、川崎市麻生区の新百合ヶ丘に住んでいた私は、
会社を変わったばかりで遅くまで残業し、朝早く出勤して行く。
朝の通勤時、当時の朝日ジャーナルに「牛車よりも遅い」と書かれた満員電車の
小田急線に揺られ、日本橋まで通うという毎日の通勤に疲れ、一念発起して
通勤がラクな場所にマンションを買おうと決意しました。
選択肢はいくつかありましたが、最後に残ったのは
港北ニュータウンと千葉ニュータウンでした。
私の実家は、東京都足立区にあります。
子どもの頃には、北千住から成田線を使って木下、小林を経由し、成田山新勝寺に初詣。
北総開発鉄道は、私が小さい頃に開通し、松戸から白井まで運転され、鉄道少年だった私は
千葉ニュータウンに将来の鉄道路線と自分の将来を重ねて、夢を見ていたのは
紛れもない事実です。
横浜には憧れがありました。港北ニュータウンという街があります。
私が住んでいた「新百合ヶ丘」から車で30分。山を切り開き、開発が進んでいました。
その街では、あっというまに開発がすすみ、何もなかったところに、街としての機能が
驚くほど整備され、地下鉄はもとより、レストラン、大型スーパー、映画館、デパートと、
そして「観覧車」まで「出現」しました。
憧れは港町「横浜/桜木町」 みなとみらい地区。
三菱重工があったこの場所で、横浜博覧会が開催され、終了してから、あっというまにわずか、
10年で開発が進み、現在では日本一高いビル(ランドマークタワー)が立っています。
翻って、千葉ニュータウン。平成15年3月。私はこの地にかつて私が住んでいた新百合ヶ丘を
重ねます。今でこそ新百合ヶ丘の駅前には大規模な商業施設が並び、ホテルもレストランも
映画館もありますが、平成7年11月、私が住んでいた当時はやっと駅前に商業施設が立ち並び
はじめた時代でした。
千葉ニュータウン事業が始まり、はや30余年。千葉ニュータウン中央駅。印西牧の原駅。
東京と成田を結ぶ この地に 横浜/みなとみらい に負けない街をつくっていく。
きっと変われるこの街に みどりあふれるみらい をつくっていく。
市民と行政が手を携え、さまざまな立場のわたしたちが
子どもも 高齢者も 障害のあるひとも
女性も 男性も 国籍もかかわりなく
生き生きと 安らかに 朗らかにくらせる街にしていく
そんな私のささやかな願いから、この名前をつけました。
一緒に皆でこの街の将来を考えてください。
ずっとこのまちに住みつづけていく。北総のこの街、印西に。
平成11年4月。皆様に支えられて初当選を果たした私はこの街にきて、わずか3年目でした。
それから4年が過ぎました。皆様に叱咤激励を受け、教えられ、支えられ、無事に4年間を
過ごしてきました。しかし、初心をいつまでも忘れることなく、決しておごることなく、
みなさまと手を携え、これからも歩いて行きたいと思います。
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